2016.09.18なぜ悟れないのか… 因果の倒立
こんにちは。
今日は、現代のカタカムナ人こと芳賀俊一さんの勉強会に行って参りました。
カタカムナを知って勉強を始めたのは今から10年以上前ですが、その時はある限られた教えしか学んでいませんでした。それだけでも実生活の多岐にわたって役立ち、大きな学びや気づきを得たものですが、芳賀さんと出会ってから、その深みが一層増し、新たな心で学ばせていただくようになりました。
勉強会にはしばらくぶりに参加したのですが、その中で面白かったエッセンスをご紹介します。
過去の偉大な人物が後世に有益な文献なり教えを残しているのに、なぜその人を上回る人がでないのか。偉大な悟りを得た人物のそばにいてストイックな修業をしたところで、なぜ悟れないのか…というお話です。
今日のテキストには次のように書かれていました。
以下、転載します。
釈迦も、孔子も、ゲーテも、確かに正しいサトリの境地に達したに違いないが、なぜ自分が此のような境地に到達し得たかを、自分自身で解析することが出来なかったため、此れらの聖人たちは自分の弟子に対して、「どうすれば正覚に達することが出来るか」と言う、具体的な方法論を示すことが出来なかったとしています。
そのため彼らの弟子たちは、最も尊敬する師の言行を成文化し、これを忠実に真似さえしていれば、何時かは氏の境地にまで到達し得るものと考えて、師の言行を経典化し、戒律や道徳律として、我慢に我慢を重ねて実行に励んで来たのですが、苦労の割りに魂の向上には、あまり役立たなかったようです。
それは、むしろ当然の帰結で、これらの弟子たちの考え方は、因果の関係を逆立ちした発想に外ならないからです。私たちは此れを「因果の倒立」と称しています。なぜ倒立なのかを説明すると次のようになります。
聖人と言われるような人たちは、何らかの理由で、魂の向上(宇野の相似象学では、波動量の向上)が先行して、その結果としての言行が、弟子たちの立場から見ると立派な模範として写ったものに外ならないのです。つまり「原囚」は「高い波動量」の取得にあったのであって、「立派な言行」は其の「結果」にしか過ぎなかったのです。従って、その弟子たちが如何に苦労して、「結果」である師の言行を真似たとしても、それは所詮、付け焼き刃であって、因果の関係を逆転して「原因」に到達するわけには行かない事は、自明の理と言えましょう。
※潜象道略儀 潜象道シリーズⅠ P25~26より抜粋
今日久しぶりにこのくだりに触れ、上手に表現しているなぁと感心しました。
ほとんどの人はこのように結果をまねて、他者から与えられた評価の域を超えない生き方をしているのだと思います。
日本の能を確立した世阿弥による、芸事を修養するための心得として語り継がれる「守・破・離」という概念がありますが、まさにそのことのように思いました。
もっと単純に言えばコピーは永遠にオリジナルを超えることはないということだと思います。
尊敬や憧れの対象を得た時、ついその人を真似ることで満足してしまう自分がいることってありませんか?
ある時までは良いと思いますが、その教えを破り、離れることで、本当に自分が探求している世界に飛び込むことができ、新たな境地を開拓する一歩を踏み出すことになるのでしょう。
その世界には、成功とか失敗という概念を超えた、自分の魂と向き合う別次元の人生が待っているのだと思います。
まだまだ尻の青い私には良く分かりませんが、このメッセージを通して自分の枠や殻を破るきかっけになればと思いご紹介させていただきました。
何かしら新たな一歩を踏み出すきっかけになりましたら幸いです。
いつもありがとうございます。
P.S
芳賀俊一さんの本「カタカムナの使い手になる」についてはこちらをご参照ください。
http://kamuna-p.jp/blog/2016062900/1.shtml
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